昭和50年06月22日 朝の御理解



  御神訓 一、「やれ痛やと云う心で有難し、今みかげをと云う心になれよ。」

 今朝の御祈念にえつ料理と云う事を頂きました。大川の諸富と云う所があります。橋を渡ってあすこ佐賀県と福岡県の境ですかね。此処だけにしか捕れないと云う川魚とも海魚とも付かない魚がおります。斉魚(えつ)と云う魚です。あれは私は川魚は頂ききりませんけれども、斉魚料理だけはそのーお刺身にして良し、酢の物で良し焼いて良し天婦羅によし、お吸物によし、もうそれこそあちらへ参りますとね。
 十二種類位出ます斉魚だけで。で私は斉魚料理と云う事を知っとりますが、もう十年位毎年一回招待を受けて参ります。初めの時にまあ聞いたんですけども、是はある修行して居るお坊さん、弘法大師と云う人もある。その旅の僧が在る時にこの川を渡るために向こうに渡りたいのだけれども、渡し賃が無かった。そこで船頭に頼んだけれども船頭がそれを、渡し賃なしには渡してはやらんと拒んだ。
 それを横で聞いておった若い青年が自分の小さい小舟で、んなら坊さん僕が渡して上げましょうと云うてまぁ渡してやったと云う事です。そのお礼に向こうに渡って一ぱいこう葦が葦の葉がこう繁っておるその葦の葉を一本取って、その葦の葉を祈りと共に川に投げますと、それがもう銀色をした魚に変わって泳いで行ったと云う事です。それから年々そこでは葦の葉にもうそっくりの魚が捕れる様になったと云うのです。
 もう本当にあのう葦の葉とそっくりです。あの姿形と云うのがね。それが何処まで本当の事かどうか解らないけれども、今日は私はその斉魚料理と云う事を頂いたから、斉魚と云う事は悦である、所謂悦に入るとこう申しますね。所謂悦こびに浸ると云う事です。料理と云う事はこれは副食と云う事です。御飯が主であるならばお菜は副食であります。ですからそのー本当に私共がままになるおかげとと云う事は、例えばそこに御飯なら御飯だけでは出来ない、そこに副食が要る。
 それでいて初めてままになると云う事になるのです。皆さんどうでも一つ、ままになるおかげを頂いて貰いたいと思う。それには先ず私くしは主である所の、ままになると云うそのままと云うそれが真です。副食と申します様にこれは何処までも副です。ですから私は本当の信心と云う事を真の言わば信心、今日の御神訓の次に、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさとあります。言わば真の道を知ると云う事が先ず第一です。所謂本当の信心を解ると云う事が第一です。
 なら本当の信心とは、まあ色々に言われますけれども、何処までも天地の道理に叶うた、私くしは道であり信心でなければいけないと思います。天地の道理「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心」まあそれを私は真の信心と頂いて良いと思います。お金がなからねば拝んで貰えないとか、どんなに考えても人間万物の霊長としての考え方から云うとおかしい。
 どうも迷信的だと、それが本当やら本当でもない解らない様な事をです、如何にもさもある様にして説く例えば宗教があるとするならば、これは先ず真の信心から一遍こう外して行かねばいけません。何処までも私くしは、いわゆる天地の道理に叶うた、成程なるほどと合点の行く信心を先ず選ぶ事です。真の信心を知ると云う事です。そしてその道の信心を、なら解っただけじゃなくてその道の信心を、身に付けて行くと云う生き方にならなきゃいけんです。
 そこにです今度は今日の例えば御理解を頂きますと、やれ痛やと言う心で有難し、今みかげをと云う心になれよと、言う様な信心が体得出来た時に、私くしは本当な意味に於いての、所謂ままになるおかげと云う事になると思います。人間の幸福の言わば条件のもう一つ一つが足ろうて来る。云うならば貧争病のない世界。真の信心をさして貰い、真の信心を体得さして貰うてです、そしてやれ痛や今みかげをと言う様な、心の状態が開けて参りますならばです、そこに人間の幸福と云う事が言えれる。
 又幸福の生活が出来る。私は信心生活、幸福の生活とはどう云う事かと云うとね、とにかく喜びに浸っての生活だと思うです。本当にもし私共に合楽が無かったなら、もし私共に金光様と云う御信心が無かったら今日の私達はない。そういう有難い信心を先ず身に付けさせて頂いておると云う事が、日々の信心の稽古に依って、それを愈々頂いて行けると云う事が有難しと云う信心にならねばいけません。
 おかげを頂くかんならんけん参りよると云う所があります。誰でも初めはそうです。お話を頂けば頂く程人間万物の霊長としてです、天地の御恩恵に欲しない、是は人間だけでは無いけれども、欲してないものはないのです。それを私共は神恩報謝の心と言う生活、神恩報謝の生活、神様に有難う御座いますとお礼の言えれる生活、それを私くしは本当の信心生活だと思います。
 信心しよります、おかげを頂きよります、だから信心生活をしよるとは言えません。おかげを受けると言う事ならばです、それこそ木立でもよからなければ、この柱でもよい。これを目当てに一心に記念をするとか、拝むとかすれば奇跡位表れます。それは我心に神が御座るからおかげになると教祖は喝破しておられます。それは和賀心に神が御座るから、おかげになると教祖は喝破しとられます。
 だからそういうのは、信心じゃないと云うのです。信心の道も神の道も、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさと、天地の親神様が信心の無い、信心の無いと云う事は信心の喜びを知らない人間の上に、本当に哀れな心を哀れな事だと云っておられるのです。どんなに金がある、物がある地位があると云うて、それがその人が幸せであるならまぁそれでよいですけれども、それで幸せがあろーとは思われません。幸福と云う事は例えば幸福の条件は足ろうておっても、喜びを知らん人があります。
 幸福の条件が足ろうておっても、不平不足に満ちた生活しか出来ない人があります。それだったら幸福じゃないでしょ。あぁあっちはお金もある健康でもある。もう自分がしようと思やぁそれこそ金さえあれば、どげな事でん出来ると云う事が出来れる人もありますけれども、果してその人の心の中にです、私は幸福と言えれる人はもう先ず無いです。例えば病気をして居りましてもです、今は例えば様々な難儀を抱えておりましてもです、真の道が解らせて頂くとです。
 今日の御理解じゃないけれども、やれ痛や有難しと云う心が生まれて来るです。だからねどんなに難儀を抱えておりましてもです、やれ痛や今みかげをと言うその理が分からにゃーいかんです。それが難儀の云うならば正体と云うか、難儀の実体と云う物が解らせて頂けば頂く程に、神恩かたじけなしと云う心は起こって来る筈です。氏子信心しておかげを受けて呉れよと云う神様の願い、しかも切なる願いがそう云う難儀に現れているのです。だからその難儀そのものは苦しいです。
 痛い事もあれば苦しい事もありゃ、はがゆい思いをする事もあるです。恥ずかしい思いをする事もあるですけれどもです、けれども有難いのです。やれ痛や痛いのです。けれども有難しとお礼が言わなければ居られない物が、其処に其処に信心の稽古が必要と言う事になるのです。痛いけれども有難し今みかげをと云う心になれよ。今が本当のおかげを頂いて居る時なんだと分からして頂くのかと。
 もう絶対にねこの難儀と云うものはね、もう人間が云うならば氏子が憎いから難儀を与えてあるのではないです。もう可愛うて堪えんからです。大きな神様の働きはねそう云うもんです。そこで私共が御神意を悟らして貰わにゃならんとか、御神意が解るとかとこう申します。御神意が解った時にゃどんなに 苦しい問題でもあってもです、神様相済みませんとお詫びする以外にゃない。お礼を申し上げる以外にはない、今こそ御影を頂いておる時だと言う事が解って参ります。
 今日の例えば御理解は丁度御神訓です、今日の御神訓を解らせて頂くと、お互いが最高のですね。斉魚(えつ)と云う魚が、云うならばお大師様と云うか仏様と云うか、方から特別に作り与えられた物である様に、是はならえつだけではありません。人間例えば食物と云う物はそれこそ人間の命の為に、天地の神が創り与え給うた物とこう言われるのですから、けれどもあのう例えばなら斉魚と言うのは、親切なその青年の為にです、例えばお礼の印に神仏が創って下さったとまぁ云われて居る訳ですけれども。
 神様が特別に与えて下さったもの。それを例えば私共は副食として頂いて参りますなら、それが副食である事が解りますなら、その難儀その物のおかげで今日の真の信心が解りますと云う事になるのです。だから完璧です。今日の此処ん所の御理解が本当に解る様になります。こんな難儀な問題、こんな忌まわしい事、こんな苦しい事がある、その苦しい事が神様へ向かう事になった。
 そして日々御教えを頂けば頂く程、ああ今迄の生き方在り方が間違うておった事、真の道を知らん事と云い乍ら、今日までの行き方在り方にお詫び、懺悔が必要になって来るのです。「やれ痛や今みかげをと云う心。やれ痛や有難し今御影をと言う心」鴨居で頭を打った。ア痛よと云うて鴨居どん叩く人がある。もう本当にそう言う咄嗟にです、苦しい事が起こって来たとか、難儀な問題がある時にや、もう神様す済みませんともう低姿勢になる以外にないです。自分の不注意なんです。
 ちょっとこう頭を下げて行きゃぁ頭を打たんのに、ほんな自分なこう威張った事して歩きよるけん、ガチッとやられる。だからあ痛っと云う前に済みませんと出る様にならにゃいかんです。苦しい問題、難儀な問題ちゅう物がです何か特別に何ぁんにも自分な悪い事しとらんとに起こったごたると思い方をしとる人がある。そんな事じゃ決してないです。必ずその原因と云う物があるのです。
 ですから痛い思いをさしてでも解らせてやろうとするその御神慮が解った時に、悟れた時に済みませんが出るのであり、今日の御理解から云う有難しと云う事になって来るのです。そこが解らせて頂く所からです、本当のままになるおかげが頂かれるのであります。何んと云うても主になるもの、それは真の信心、云うならば神の道も真の道もと云う風に仰っとられます。
 その真の道を私共が解らせて頂くと云う事。本当の信心を先ず解らせて貰うと云う事。そしてその真の信心をその内容的に愈々解らして頂く為に私共の周辺に起きて来る様々な問題、それを又難儀と云うても良いですけど、その難儀を通して真の信心の中身が解って来る。私は今日はえつ料理と言う事を頂いた時に、ああ今日はどう云う御教えを頂くだろうかと実は思うとった。
 そしたら教典を開かして頂きましたら「このやれ痛やと言う心で有難し、今みかげをと云う心になれよ」と言う御神訓を頂いて、はぁ成程斉魚料理と言う事は、神様が御望み下さった物をもって作った副食だと言う風に感じた。神様のお恵みによって作らせて頂いた副食、同時に真の信心とはこうこうだと言う物を解らして頂いてそれを副食としてです、私共に一日ままになる生活を私しは信心生活だと思う。
 なら信心生活とは喜びに満ちた生活です。痛い事があっても苦しい事があっても、矢張り有難いのです。有難しです。だから幸とは、幸福とはそこにあると云う事が解ります。どう云う中にあっても有難しと言えたり思えたりするその心が幸福です。勿論そう云う心がどんどん開けて参ります。そう云う心が頂けて来る事になる所にです、是は真実人間幸福の条件が愈々足ろうて来る。そう云うおかげを頂かせて貰うて、愈々本当の意味に於てままになると言うおかげになるのです。そう云う心の状態です。
 天地金乃神様の、云うならばお役にも立たせて頂こう、私がこうやって助かった、だから是を人にも伝えて行こう。そう云う働きが出来る時にです、初めて私共がままになっただけでなくて、神様も又ままになって下さる時です、神様と氏子が一緒にままになって行く理想の世界。そういう世界を目指すと云う事が金光教の信心なんです。金光教の教祖はそう言う事の為に御出現なったと言うても良いのです。
 只私共がおかげを受けたというだけではない。頂いたおかげをそこに難儀な氏子に、に伝えて行く。それを最近合楽では合楽示現活動に参画さして下さいと云う事になって来るのです。そこに不思議な不思議な神様が、神仏が奇跡を見せるとこう云う。示現と言う事はです不思議な働き、不思議な力をです神仏が示して現すと事だと云う意味なんです。そういう示現がなされる事の為にです。
 私共はその手にも足にもならして貰う。又は拡声器代わりにもならせて頂いて、人にもそれを伝えて行こうと云うのが、そういう運動にかたらせて下さい、預からせて下さいと云うのが参画という意味なんです。合楽示現活動に参画さして下さい。そういう信心が愈々身に付いて来る時です、日々がもう必ず信心を頂いておる事の歓びと云うか、生き甲斐と云うか本当に有難いと言う生活が営んで行ける事になるのです。一つ本当の意味での信心生活が出来る様になるおかげを頂きたいですね。
   どうぞ。